2012-07-23

CuckooClock Angels


     
     
「CLOCKWORK ANGELS」について感じたことを
もう少し書いておこう。
     
一つのストーリーに基づく
コンセプト・アルバムということは前回述べたとおり。
そのストーリーは、SF作家ケビン・J・アンダーソンの協力を得て
小説として発表されるという。
ニール・パートの物語は
まだまだ語り尽くされていなかったようだ。
     
ケビン・J・アンダーソンは、
スター・ウォーズやXファイルのノヴェライズで有名な人です。
たしか以前「無限アセンブラ」(ダグ・ビースンとの共著)
を読んでるはずなんだけど、
内容に関してまったく憶えていないのはどうしたわけか(汗)。
たぶん、こちらの記憶力の問題でしょう……
     
まあ、それはともかく。
     
わたしはどうしても、プログレ史に名を刻む
ある名作との類似性を感じずにはいられない。
GENESISの「THE LAMB LIES DOWN ON BROADWAY」だ。
     
「THE LAMB 〜」の
ゲートフォールドの中面を埋め尽くした言葉の海は、
ピーター・ガブリエルからほとばしる物語の発露だった。
さらに、結局は頓挫してしまうものの
ウイリアム・フリードキンとのコラボレーションで
音楽以外のメディアでの作品化を目論んだ。
時に音楽の枠にはみ出すほどの創造性が
他ジャンルのクリエイターを刺激するのかもしれない。
どちらもきっかけはフリードキン、
あるいはアンダーソン側からの接触だ。
     
そういえば「THE LAMB LIES DOWN ON BROADWAY」も
“一人の青年が不可思議な世界を旅する”物語だった。
主人公の名ラエルは、リアルのアナグラム。
インナー・スペースの奥深くに分け入り、
真の自分を発見する道程を描く。
当時のステージでは、ガブリエルがラエルを演じ、
2枚組のアルバム全曲を通して演奏、
つまりストーリーを完全に再現した。
あたかもラエルが憑依したかのように。
間違いなく、ガブリエルはラエルに自身を投影していただろう。
ラエルの旅もまた、物語を生み出した本人の旅だった。
     
その結果、
本当に真の自分を発見してしまったのかどうかはわからないが、
彼はこのアルバムを最後にGENESISから去る。
作品の出来栄えもさることながら、そういう意味からも
GENESISにとって重大な“区切り”のアルバムとなってしまったのだ。
     
まあRUSHに限ってそんな物騒なことはないでしょうが、
あくまで作品世界において、
今後どういう展開を見せてくれるのかは本当に楽しみ。
     
もちろん、それまではこのアルバムを十分味わい尽くそう。
     
そして小説版「CLOCKWORK ANGELS」の発売も近い。
こちらは頓挫することなく発売されそうだ。
     
だが、はたして翻訳されるのかどうか?
私にとってはそれが問題なんだよね。
     
     
     
     

2012-07-19

Goodbye, Delusion


       
       
大切な人を亡くしたとき、 
その喪失感を埋めるものはなんだろう。 
        
ある人にとって、それは信仰かもしれない。 
        
四年前に父親を亡くして以来、 
それまでさほど信心深いと感じたことはなかった母が 
今も毎日仏壇に話しかけ、 
毎月の月命日と、それ以外でも気が向いたときに 
自分流ではあるが経を唱えている。 
       
そうじゃない人間も、もちろんいる。
かくいうわたしは四年前のちょうどその時期、
リチャード・ドーキンスの
「神は妄想である」という本を読みふけっていた。 
        
時系列的には、 
本屋で見かけて買う→読み始める→父入院→他界 
なので、たまたまその時に読んでいた本、というに過ぎない。 
        
だがこのときのわたしの心情にたぶんフィットしていたのだと思う。 
新潟との往復の新幹線の中、 
あるいは病院に泊まり込んでの看病の時など、 
ずっとこの本を読み続けた。 
        
内容は、タイトルから想像できるそのままです
(「宗教との決別」という副題が付けられている)。 
人間に必要なのは科学的・合理的な思考なのであって 
信仰、それも特に宗教に対するそれは、有害なものでしかない。 
そのことを一つ一つ事例を挙げて、執拗かつ徹底的に論じた本。
百害あって一理たりともない、とまで言い切った。 
当時はそれなりにセンセーションを起こしたと記憶している。 
        
初詣は神社に行くし、お彼岸には墓に手を合わせ、 
愛を誓ったのは牧師の前。 
        
典型的な日本人の行動様式を取りながらも 
むしろだからこそ、ある特定の宗教に踏み込まないよう 
注意して生きてもきた。 
そんなわたしにはもともと興味のあるテーマでした。 
        
「あの世」を信じれば、「人の死」も比較的
折り合いをつけ易いのかもしれない。 
だが「あの世」を信じていなければ? 
無神論者に「死」を受け入れることは可能なのか? 
        
ドーキンスはそんな疑問に答える。 
科学的思考によって十分「死」を克服することはできると。 
        
なかなか面白く読めたし、父親の死に対しても
ある程度拠り所になった部分もあったかもしれません。 
        
ただ共感するところは多かったにせよ、 
どこか冷めている自分がいたのも事実。 
        
この本が語るとおり、宗教を盲目的に信じることが悪ならば 
同様にこの本自体、 
無条件で受け入れるわけにはいかないじゃないか? 
        
たしかに、宗教にしろ科学にしろ、
心から信じることができたなら それは強い
(ドーキンス、はたまた原理主義者……善し悪しは別問題として)。 
彼らは「死」も克服できるだろう。 
        
盲目的がいけないというなら、自分の頭で考えろということか。
それにしたって人はいろいろなことに影響を受ける。
いったい何を信じればいいのか?
そもそも何かを信じるとはどういうことなのだ? 
信じる意味とは……? 
        
       
       
今年、RUSHが五年ぶりに新譜を発表した。
タイトルは「CLOCKWORK ANGELS」。 
        
RUSHの楽曲すべての歌詞 
ひいてはコンセプト・ワークを一手に担う
ドラマーのニール・パート。
彼もまた、ずっとこの問いの答えを
探し続けているようにわたしには思えます。 
        
90年代終わり頃。 
彼はわたしなどとは比べものにならない 
過酷な運命と直面する。 
一人娘と夫人を事故と病気で相次いで亡くしたのだ。 
        
はたして、復帰までには時間を要した。 
        
しかしRUSHは復活する。もちろんメンバーは不動。 
2002年に「VAPOR TRAILS」、
 続いて2007年には「SNAKE & ARROWS」を発表。 
合間にはツアーもこなし、 
自分たちのペースは守りつつも現在まで精力的に活動している。 
        
ただしニール・パートの紡ぐ詩が、先の不幸な出来事以来
その影響を色濃く反映したものとなるのは必然だった
(RUSHの楽しみは、他のミュージシャン以上に
詩を味わうことによってもたらされる。
わたしの場合は相変わらず日本版の翻訳だよりですが)。
        
復帰第一作「VAPOR TRAILS」。
全体に漂うのはある種の諦観の境地だ。
人の命も感情も、大空に束の間描かれるだけの
「飛行機雲(VAPOR TRAIL)」にすぎない。
だが運命に抗い、ささやかな抵抗を試みる姿を描く詩もある。
己の無力にさいなまれつつも、それでも何かを信じたいと葛藤する
パートの心情がうかがえるようだ。
        
ではその信じられるものとはいったい何なのか。
それが次作「SNAKE & ARROWS」におけるテーマとなる。
詩はついに個人的な感情を離れ、世界のありようを問う。
その中ではっきりと宣言されるのが、信仰との決別だ。
        
人が平等というなら、恵まれたもの呪われたものがいるのは
いったいどういう不手際なのだ、とアイロニカルに詠い、
また、身を守る鎧のつもりで身につけた信仰は、
人を攻撃する矢にもなりうるのだと説く。
信心深い純真な軍隊、どんな科学の力にも抗う伝染病、
そういう強い言葉で、今のこの世界は
まるで暗黒時代に戻ってしまったかのようだと嘆く。
        
じつは、パートもまた、
ドーキンスの「神は妄想である」を読んでいた。
彼自身によるライナー・ノートには、
信仰が知らず知らずのうち(特に幼少期)に
多くの人に刷り込まれてしまう危険性について、
この本と意を同じくしたと記されている。
        
さまざまなことを探り、問いかけ、行動したなかの
一つの出会いだったのだろう。
逆に宗教にのめりこんでも不思議はない状況で
どうしてそこまでの心境に至ったのか。
特にキリスト教圏で生まれ育った人には、
日本人である私たちより
はるかに難しいことであることは想像に難くない。
彼の思想の旅路は本人以外には計り知れない。
だがまぎれもなく、この作品は重要な中継地となった。
        
そして今回発表された最新アルバム、
「CLOCKWORK ANGELS」。
一つのストーリーに基づく
コンセプト・アルバムとして作られている。
        
毎回その時々の関心事をテーマとして
アルバムを創る彼らではあるが
ここまで明快なコンセプト・アルバムは70年代以来だろうか。
        
ストーリーは、ニール・パートオリジナルとなる
スチーム・パンクという趣向。
舞台は、ウォッチメイカーと呼ばれる存在に支配された世界。
空には時計仕掛けの天使が舞い、
タイムキーパーの大聖堂がそびえ建つ。
人々は教えられたとおりのことを信じ、与えられたものを
そのまま受け入れて暮らしている。
決まり切った毎日に嫌気がさした青年である“わたし”は
そんな世界に疑問を感じ旅に出る。
その冒険物語が曲となって綴られているのだ。
        
ジュブナイルとも言える内容で、さほど凝った設定ではない。
しかしだからこそ見えるものがある。
「VAPOR TRAILS」、「SNAKE & ARROWS」と聴いてきた者なら
この物語の意図するところは明らかだろう。
      
主人公はニール・パート自身。
冒険は、自身を襲った悲しい出来事以来
答えを探し求めてきた彼の旅そのもの。
そして旅には必ず辿り着くべき終着点がある。
      
今回、ついに旅の終焉が訪れた。
       
アルバムは「The Pedlar」という幕間曲
(ほとんど曲の体裁にはなっていないが……)によって
三部に分かれている。
第一部は世界感と動機の提示、第二部は冒険の旅。
ストーリーはここで一応の決着を迎えるが、
当然第三部こそ真にフィナーレと呼ぶべき内容となっている。
感動的なメロディー・ラインに乗せて
彼のメッセージがストレートな形で歌い上げられているのだ。
       
第三部の一曲目「BU2B2」で、
もう信仰には失望した。
楽観論にも見捨てられた。
慰めになる哲学はない。
それでも、わたしは生きていこう、
という痛々しくも断固とした決意が詠われる。
       
自分と相容れない人たちに向けては
次の「Wish Them Well」を叩きつける。
せいぜい彼らに幸あれ。
そして背を向け別れを告げろ、
同じ舞台に引き込まれるな、と。
これは世界に対する強烈なメッセージだ。
       
最後の曲「The Garden」は、
人生の宝物についての詩。
油断すれば、ウォッチメイカーは着実に
人生をかすめ取っていく。
それでも人は自らの庭で宝を育てなければいけない。
その宝とは、いくばくかの愛と尊敬の念……。
       
テーマは「SNAKE & ARROWS」と共通しているが
さらに踏み込んだ次元に達したようにわたしには思える。
パートは、信仰こそ信じないが
人がささやかな信念を持つことを信じているのだ。
もちろんこのことは、わたしが指摘したように
どうしたってパラドキシカルな響きが忍び込む。
それは彼も十分自覚を持っており、
“皮肉を身に沁みて感じる”という言及もある。
だが、それでもなお、彼は確信を持って詩にした。
      
悲劇から15年。巡り巡る長い旅路。
その旅を物語として表現した。
抽象的な存在だったものに、しっかりとした形を与えた。
ようやく一つの終着点にたどり着いた。

自分の頭で、全身全霊で思考し続けた結果なのだろう。
おそらく、信じることの意味を見つけたのだ。
       
また、言うまでもなく彼の詩は
リー、ライフソンの曲作りにも大きな影響を及ぼす。
ストーリー仕立てという構成が、メリハリのある楽曲を生んだ。
バラードはより切なく、ハードな曲はより力強く。
冒険物語という体裁のためだろうか、メロディも陰にこもる感じがない。
親しみやすさすら憶える印象的な旋律が胸に迫る。
どちらかというとヘヴィーなリフ中心の曲が多かった近作からの、
歓迎すべき変化だ。
       
そして、RUSHにおいては珍しい、ストリングスやピアノの導入。
第二幕のクライマックス、続くフィナーレとなる第三幕で、
とても劇的な効果を上げている。
音楽的な面でも、正にコンセプト・アルバムにふさわしい
感動的なエンディングを迎えるのだ。
       
今後彼らにどういう展開が待っているのかはわからない。
もしかしたらまた新たな旅に出るのかもしれない
(今の時点では彼ら自身にすら未知だろう)。
だがこのアルバムを、前二作と合わせて
三部作の最後を飾る作品と見なすことは可能だと思う。
なんにせよ一つの区切りとなることは間違いないところだ。
いや、“区切り”という言葉は恐ろしく控えめに過ぎる。
RUSHの長い長いキャリアの中でも、
「2112」や「MOVING PICTURES」に匹敵する
マイルストーンとなり得る傑作だと断言しよう。












わたしには、いまだ信じることの意味はわからない。
       
しかしまったく萎むことのない彼らの創造性は、
わたしにとって数少ない、信じるに足ることのひとつなのだ。
      
      
      
      

2012-06-26

Paint it, Brain


     
前にもちょっと書いたけど
料理の写真を撮るのがニガテである。
     
いろいろ理由はあるけれど、
そもそも一番の根源的な話として、
食べ物を目の前に差し出されて
空腹信号に満たされたわたしの脳が
撮影などという高度に創造的な行為を
監督できるわけがありますか?ってこと。
     
食欲か、ゲージツか。
     
そんなもの食欲の圧勝に決まってる。
     
しかも「これってブログネタじゃね?」
なんていう肝心なときほど
気づいたら食べ終わってたなんてことになりがちなのだ。
     
ネタになるってことは
外でめちゃうまそうな料理を食べるときだったり
家でそれなりに手間をかけた料理を
作ったときだったりするわけだから、
そりゃ食欲MAX、撮影なんか飛んじゃう確率は高くなる。
     
仕方がない。
思い出したときだけのイヤイヤ写真でここまで来たけど
ついに本邦初公開、奥の手を使うとするか。
     
ふっふっふ。カメラなど使わなくとも、
人間には脳という立派な記憶装置が備わってるのだよ。
十分食欲を満たしたあとで、
じっくりと創造的に使えばいい。
     
これで食欲もゲージツも両取りだ。
     
そんな折り、というかけっこう前になっちゃいましたが
Yさん夫婦がわが家に遊びに来てくれました。
その時も僭越ながらわが拙作をお出ししたものの
果たして1枚の写真も撮らずじまい。
     
てなわけで今こそ自前の記憶装置をフル稼働。
ちと前なんで難儀でしたが、なんとか
その時の献立のうちいくつかを絵にしてみましたぞ。
     
        
タコとセミドライトマトのマリネ。


















          
                         


                         
ニンジンサラダ。L’OULIBOはお客様仕様。

                         
                         

















    
                           
自家製マグロのコンフィとミョウガのスパゲティーニ。
ツナのオイリーさもミョウガのさっぱり感で良いバランスに。
はっきり言って、合います。


                              
              

















    
                 
うむむ。もしかして写真なんかより
よほど絵のほうが巧拙を問われるんじゃ……
      
自分の画力は計算外だったわ。
     
ゲージツへの道は、遠く険しい。
     
     
     

2012-05-17

Three of a Parallel Life.



「くそっ、あいつが全部やっちまった!」

若き日のジャクソン・ポロックは、
ピカソの画集を床にたたきつけ、こう叫んだそうです。

なんだかめちゃくちゃわかるなあ。
わたしも美術系学生の端くれだった30年近く前、
同じようなことを思ったモノです。

あのアメリカを代表する前衛芸術家ポロックにも、
ブレイク以前には苦悩しながら試行錯誤を繰り返す日々があったのだとか。

その頃の作品を見ても、
ピカソ風ありカンディンスキー風ありミロ風ありetc.etc.
……なんか好みもわたしと似てるし。

クロッキー帳に描きとめられたアイデアスケッチ
(という名のちょっと恥ずかしいイタズラ描き)なんて、
「オレかよ!」と心の中で思わず叫ぶシンクロ具合。
ああ、ポロックさんもこういうの描いたんだね……

もちろんポロックとわたしの間には
数万光年にも匹敵する遙かな隔たりがあるのは言わずもがな。

わたしの恥ずかしい若描きが衆人の目に曝されないのは
単にわたしが無名の一般人だからにすぎません。
一般人万歳!

結局、苦悩の“種類”は似ていても
“深さ”が違ったということでしょう。
だからピカソの画集を眺めたとき、
似たようなことを思ってもわたしはそれを
床に叩きつけるようなことはしなかった。
それどころか「やっぱピカソってスゲエわ」なんて
早々に白旗を揚げる始末。
ポロックにあったであろう「いつかは超えてやる!」という強い意志が、
当然のことながらわたしにはこれっぽっちもなかったのでした。
このへんが、一般人と偉大なアーティストを分ける
決定的な分岐点なのでしょうね。

しかしその苦悩のあまりの激しさによるものでしょう、
ポロックは若い頃からアルコール依存症に苛まれ、
精神分析の治療も受けています。

わたしだって「酒飲みまくってでろんでろんに酔っぱらったら
きっとスゴイ絵が描けるんじゃないか」なんて思ったこともありましたが。
って、そういうことじゃないか。

キャンバスの上をのしのし歩き回り、大きく刷毛を振り回して描く
アクション・ペインティング。
ためらいなど微塵も感じられない制作風景からは想像もできなかった
その境地に至るまでの(美大生にはあるある的な)悩み。
遙かな隔たりは厳然とあるとしても、でもそれが
足元の地面でつながっていたんだと、ちょっと親近感が湧いたって話です。



で、そんなわたしがふと思い出したのが
前衛芸術のロック界代表、ジェイミー・ミューア。
ガラクタのようなパーカッションの合間を歩き回り
手当たり次第に叩いたり蹴ったり吹いたりする様は
まさに音の奔流を描くアクション・ペインティング。



観る者、聴く者に鮮烈な印象を叩きつけ、
でもあっという間にシーンから消え去ったところも似ています。
ポロックはブレイクから3〜4年後に
プレッシャーから再び混迷期に入りアルコール依存も再発、
自動車事故により44歳の若さで他界してしまうのでした。

てっきり天然の人だと思い込んでたミューアさんも
ポロック同様苦悩の日々があったのでしょうか?

キング・クリムゾン脱退後は引退して仏教の修行をしたとか……
以前何かの雑誌で画家としてセカンドキャリアを積んでいるという話も……

少なくとも人生後半に関しては、
自分の属していた世界に執着しなかったことで
(傍目には)迷いのない人生を歩けているように見えます。

ポロックさんも全盛期の後は違うことをやっていたら
もしかしたら死ぬことはなかったかもしれませんね。

正直この歳になり、このまま今の仕事続けていいのか
疑問が首をもたげる今日この頃。
今後わたしも歩むならミューアさんの人生、といきたいところですが
いざそんな潔い転身ができるかどうか。

スパッと足が洗えるのも
その世界で大きな仕事をやり遂げてこそなんでしょう。
悲しいかな一般人。

たしかにこの頃のキング・クリムゾン、
ジェイミー・ミューアが起爆剤となり
ロックにおけるインプロヴィゼーションの地平を開拓。
それはとてつもない破壊力を以て
われわれにインパクトを残しました。

そしてその後も手を変え品を変え、時代が変わっても
常に新たなコンセプトを提示し続けたモンスター・バンド。
ニュー・ウェイブとの接近、エスニックなリズム、
更に時代は下りダブル・トリオおよびProjeKctという実験的編成、
そして新時代のメタル・ミュージック……

そうです。そこには第3の人生を歩む男の存在が。
今や“偉大なる詐欺師”が代名詞、ロバート・フリップ。

キース・ティペット、ジェイミー・ミューアを始め、
パオパオギターやスティック奏者、エレドラ奏者などなど、
次々と“飛び道具”をバンドに引き込み、
自らは(プレイもするけど)専ら黒幕としてバンドを操る。
さらには自身のレーベルを立ち上げ運営……

結局、こういうプロデューサー・タイプが
一番成功するってことですか。そうですか。

「世の中には2種類の人間しかいない。
自分で何かをするのがうれしい人間と、
人に何かをさせて満足する人間だ。」

これは四半世紀以上デザインの仕事をやってきたわたしが
絶対的真理として疑うことのない持論ですが、
典型的な前者であるわたし、フリップさんにはなれません。
そのへんはとっくに諦めてますけど。
それに成功と幸せは必ずしもイコールじゃないし。
ってこれこそ一般人の常套句ですね。

そしてきっと、プログレの世界でも、
世界中の多く(…はないか)の若きプレイヤーたちにとっては
こんな言葉が常套句なのに違いありません。

「くそっ、キング・クリムゾンが全部やっちまった!」





2012-02-16

オルタード・カルボナーラ

帰省やらハワイやら
何かと家を空けることが多かった1月。
こまめに手間のかかるパンチェッタの仕込みを
しばらく休んでおりました。
しかし、わたしもパートナーもカルボナーラLOVE。
卵とチーズの濃厚なコラボレーションの誘惑!
パンチェッタじゃなくてもカルボナーラは食べたい!
てなわけで、“変形カルボナーラ”、作ってみました。
今時パンチェッタくらい近所のスーパーでも売ってるけど
それじゃあブログのネタにもならないしね。
まずは「親子カルボ」。























パンチェッタの代わりに鶏肉。
わたしはたまたま家にあった胸肉を使いましたがお好みで。
胸じゃやっぱりパンチがないので
アクセントにインゲン、そしてタイムを投入。
食感と香りに変化をつけてみました。
ちなみにパスタは手打ちのカヴァテッリ。
続いては「スモーク・サーモンのカルボちゃん」。























なんだカルボ“ちゃん”って。いいおっさんが恥ずかしいぞ。
じつはこれ、隠し味に味噌を入れてるんですね。
“ちゃんちゃん焼き”からの発想というわけ(ダジャレかよ)。
そしてもう一つは昔懐かしい卵味噌。
つまり、シャケと味噌は合う。味噌と卵も合う。
これはイケるに違いない!!!!(う〜ん天才)
……ただ注意しなきゃいけないのが
スモーク・サーモンの塩分。
味噌は甘めのものを少量で。
もうちょっと味噌の風味を立たせたいけど
生鮭は加熱が必須だし。
う〜ん、まだまだ試行の余地アリ。
イケると思ったんだがなあ……(前言撤回)
それにしても
コレステロールなどなんのその。
卵を消費しまくるわが家。
……あ!
今月人間ドック予約してたの忘れてたよ。
カルボでメタボとかダジャレにもならん。
この体もオルタード・カーボンしたいわ。

2012-02-15

オルタード・カーボン

      
今読んでる本、「オルタード・カーボン」がなかなか読ませます。
















                              
27世紀の未来、人間の精神はデータ化され、
肉体を取り替える=オルタード・カーボン(“変身コピー”と訳されています)
となることで不死が可能になった世界。
      
そんな時代、ある事件の捜査を依頼された主人公が、
他人の体をあてがわれ見知らぬ土地(=地球)で陰謀に巻き込まれる……
というストーリー。
      
フィリップ・K・ディック記念賞を受賞したということだけど、
ディック的というよりは、もろに「ブレードランナー」の世界です。
      
退廃的な空気が支配する街の中、暗殺者に狙われながらも
拳銃(!)片手に事件を追う主人公。
飛び回るエアカー、ちょいちょい飛び出す日本趣味。
      
SF的設定・ガジェットはこれでもかと投入され、
むしろ「ブレードランナー」を凌駕する濃密さ。
あの世界観がさらにアップ・グレードされて脳裏に展開されます。
「ブレラン」好きは必読でしょう。
      
ただ、レプリカントをフォークト・カンプフ・テストで追い詰める
バウンティー・ハンターのごとく、
何にでも重箱の隅をつつかずにいられないのは
われらSF小舅の悲しいサガ。
      
読み始めてすぐひっかかってしまったのが、
せっかくの設定なのにそこから演繹されるべき認識論的側面には
ほとんど踏み込んでいないところです。
      
例えば、登場人物のメンタリティが27世紀にしてはかなり現代的。
みんな、人の“外観”に惑わされすぎじゃない?
肉体を取り替えることがあたりまえになった世界に住んでるわりには
あまりにもナイーブ。
      
それにもっと根本的な問題。
この世界、富豪たちは肉体のスペアをいくつも持っていて
不慮の事故(殺人含む)で死んでも、自動バックアップされた
精神データをダウン・ロードして何度でも生き返る。
でもそれって“不死”とは言わないよね。
      
バックアップは何から何まで自分そっくりではあるけど
それは「わたし」じゃない。
自分が生きてる間にバックアップを起動させてみればばわかりやすい。
わたしはわたし、バックアップくんはバックアップくんだ。
バックアップくんも間違いなく「わたし」だと思っているだろうが。
      
このへんのところは、それはそれでおもしろい話ではありまして、
いろいろ考え始めちゃうと「わたし」という概念自体揺らぎだす。
じつは結論も一概に言えなかったりするんですが、
まあ普通、特に説明のない場合
「わたし」と「バックアップ」を分けて考えるのが
最近のSFでは常識だと思うんだけど
(この考えに沿った場面もあるにはあるけど
むしろよけい不死との矛盾が気になる)。
      
「でもそこ突っ込んじゃうと根底から吹き飛んじゃうよなあ……」
などと考えながらも読み進んでいくわけですが、それでも
いつの間にか話に引き込まれている自分に気づきます。

なんたってこの小説、なかなか凝ったプロットを
このガジェット満載の世界の中で読ませるにしては
かなりリーダビリティが高い。

著者はあえてそれらのめんどくさい議論を回避したんでしょうね。
まともに扱っても今や希少種のSF読みしかよろこばないし。
      
その手のSF的思索をオミットしたことによって得られる
ドライブ感、ノリの良さ。
主人公による一人称の語り口も観念的とはほど遠く
即物的で無頼。
      
つまりこの著者が目指したのは、ハードはハードでも
ハードSFじゃなくてハードボイルドなのでありました。
(「ブレードランナー」の脚本家も“未来のフィリップ・マーロウ”を
イメージしたといいます)。
      
確かにハードボイルドの主人公ともなれば
美女を目の前にしたらBED IN!がお約束。
美女の肉体にピクリともしないカケ離れたメンタリティの持ち主じゃ
こっちも感情移入できないからね!
      
ちょっと“ご都合”なところはありますが
SF的設定のストーリーへの絡め方もツボを得てるし、
アクションも満載。
「ブレードランナー」の世界、ジャンクなガジェット、
ハードボイルドな主人公、サスペンス。
エンターテインメントとしてこれはこれで十分アリ。おもしろいです。
      
発表当時、いち早く映画化権が売れたのも納得。
      
まあハリウッドとしても、ある意味
「ブレードランナー」以上に「ブレードランナー」らしい世界観が
イメージしやすかったんだろうね。
      
でもそれが“21世紀の「ブレードランナー」”となり得るかは
また別の話。
      
言わずもがなだけど
「ブレードランナー」には重要なテーマがあった。
それこそまさに、この小説が議論を避けた
「わたしとは何か?」という問題。
      
「ブレードランナー」が提示したのは
この小説を含む数多くのフォロワーを産んだ
あの世界観だけじゃなかった。
      
はたして「オルタード・カーボン」の映画化は?
      
小説の映画化の世界観を小説にした映画化。
      
レプリカントのレプリカントのレプリカントはやっぱり偽物?
この構図、ちょっとディック的。
      
「ブレードランナー」のオルタード・カーボン。
      
ただの“劣化コピー”にならなきゃいいけどね。
      
      
      
      

2012-02-08

Across The Border

      
旅。
      
がんじがらめの日常から逃れ
境界を越えて
殻の外から自分を見つめ直す。
      
Travels With Myself
      
あてどなき彷徨。
人生のExile。
      
そして帰還。
      
不肖ながら、帰って参りました。
      
ハワイから。
      
いや〜、ハワイいいっすね〜。
輝く太陽。心地よい風。
日本の記録的寒波なんて忘れてましたわ。
      
仕事から少し離れるいい機会。
これからの人生じっくり考えてみようと
旅立つ前は思っていたんですよ。ホントに。
あるいはとっくに冗談じゃなくなってる
老後の心配とか。
      
しかしねー。行き先がハワイってのがどうも。
      
彼の地に足を一歩踏み入れた瞬間、日本で悶々としていたことなんて
見事にどーでもよくなっちゃうんですねこれが。
南国の魔力。なんくるないさ〜!マイ・ペンライ!ケ・セラ・セラ!
(ハワイの言葉じゃないけど、いいじゃない!)
      
そもそもたかが5泊程度の滞在じゃ
じっと考え事してるヒマなんかあるはずもないし。
      
パートナーと二人、シー・カヤック乗って、買い物して、
散歩して、ジャンク食べまくって、
あと、友人の結婚式に出席して。
      
That’s All
      
あっという間に旅の時間は過ぎ去り、
結局また
何もなかったかのように日常に舞い戻る。
      
楽しかったから、ま、いいか!
(なんだか南国の魔力とは関係ないような気がしてきた)
      
そういえば。
      
前回ハワイに行ったときは
お気に入りCDをトランクに詰め込み
一部の友人から(そこまでするか!と)不評を買いましたが、
今回はなんと、文明の利器を活用しましたぞ!






















                        
この旅行のためにiPodオーディオを買ってしまいました
荷物になってることに変わりないけど。
      
ちなみに上に乗っかっているiPod mini(わが家では最先端)は
パートナーの所有。
彼女の好きなハワイアンしか入っていないiPodに、わたしのCDを
(頼み込んで)いくつか取り込んでもらったのであります。
      
ハワイではもちろん大活躍。
部屋ではずーと音楽ならしてた。
      
音質的なことを言っちゃえば、ご多分に漏れず
中域は薄いし、ブーストされた低音が耳に障るし、音場は狭い。
しかし(試聴した)S○NYとかのおもちゃっぽいのに比べたら断然よろし。
なんたって旅行目的、コンパクト重視ゆえ選択肢も限られる。
そんな中ではデザインが断トツに良いので
総合的にはいい買い物したと思ってます。
余談だけど、なんで日本のメーカーはこーゆーデザインできないかなあ。
ありえないでしょ。S○NYとかのおもちゃっぽいのとか(しつこい)。
      
それは良いとして。
      
実は今回、ハワイで聴いてみたい曲がありました。
あの名曲「Diamond Head」。
      
そう、エレキがテケテケと心地よい夏の風物詩…
って、ベンチャーズじゃなくって。
      
プログ好きならおなじみ、あのトンボのメガネで有名な
フィル・マンザネラ ソロ・アルバムの中の一曲。

















                              
それにしても「Diamond Head」、
アルバム・タイトルでもあるのに
ジャケットがぜんぜんハワイっぽくないのは何故だろう。
アメリカ中西部を走ってるユニオン・パシフィック・鉄道の
昔の機関車らしいのですが。
そりゃ大きなくくりではアメリカには違いないけど、
このざっくり感は彼に流れるラテンの血がなせるワザ?
      
それは言い過ぎとしても、確かに最近では
ラテン・ルーツを意識した音楽性を追求しながら
精力的に活動するマンザネラ。
ビバ!ケ・セラ・セラ・スピリット。
このソロ1作目でもそこはかとなくおおらかな空気を感じます。
そんな感覚がハワイのゆったりした時間の流れにじつに合う。
いつのまにかジャケットのミスマッチなんかマイ・ペンライ。
エコノミー・ホテルの窓からは何も見えなくても、
心はダイヤモンド・ヘッド・ビュー。
そしてラテン・ルーツに敬意を表して飲むコロナ。
う〜ん。たまらん。
      
とはいえ、プログレばかり流していては
パートナーに叱られます。
ハワイまで来てケンカになってもつまりません。
      
ここはひとつ、家ではできない必殺ワザを!
      
シャッフル機能〜〜〜!
      
は?そんなにもったいつけるほどのものじゃない?
否。このワザこそわたしにとっては超えてはならない一線。
アルバム1枚で一つの完成された作品とする
われわれプログレッシャーにとっては
この世に存在することすらアンビリーバブルな機能です。
アルバム1曲目を聴きだしたら
そのまま最後まで聴き通さなければならない鉄の掟。
順番を入れ替え、あまつさえ他のミュージシャンの曲と混ぜるなど
考えるだに恐ろしい。
ああ、プログレの神様、お許しください。
とうとう禁断の果実に手を触れてしまいました。
      
でもまあ、ここはハワイだし〜。
マイ・ペンライ、マイ・ペンライ、と……
      
な、なんだこれは。
ギャビー・パヒヌイの後にハット・フィールド・アンド・ザ・ノース。
エイミー・ハナイアリイの後にナショナル・ヘルス。
ナレオの後にジェネシス。
      
ハワイの空気もどこかへ吹き飛ぶシュールっぷり。
プログレオンリーより破壊力あるじゃん!
シャッフルスゴイわ。ipod、侮りがたし。
      
人生観は変わらずとも、音楽観は変わったかも。
      
      
      
      

フォロワー