2012-02-15

オルタード・カーボン

      
今読んでる本、「オルタード・カーボン」がなかなか読ませます。
















                              
27世紀の未来、人間の精神はデータ化され、
肉体を取り替える=オルタード・カーボン(“変身コピー”と訳されています)
となることで不死が可能になった世界。
      
そんな時代、ある事件の捜査を依頼された主人公が、
他人の体をあてがわれ見知らぬ土地(=地球)で陰謀に巻き込まれる……
というストーリー。
      
フィリップ・K・ディック記念賞を受賞したということだけど、
ディック的というよりは、もろに「ブレードランナー」の世界です。
      
退廃的な空気が支配する街の中、暗殺者に狙われながらも
拳銃(!)片手に事件を追う主人公。
飛び回るエアカー、ちょいちょい飛び出す日本趣味。
      
SF的設定・ガジェットはこれでもかと投入され、
むしろ「ブレードランナー」を凌駕する濃密さ。
あの世界観がさらにアップ・グレードされて脳裏に展開されます。
「ブレラン」好きは必読でしょう。
      
ただ、レプリカントをフォークト・カンプフ・テストで追い詰める
バウンティー・ハンターのごとく、
何にでも重箱の隅をつつかずにいられないのは
われらSF小舅の悲しいサガ。
      
読み始めてすぐひっかかってしまったのが、
せっかくの設定なのにそこから演繹されるべき認識論的側面には
ほとんど踏み込んでいないところです。
      
例えば、登場人物のメンタリティが27世紀にしてはかなり現代的。
みんな、人の“外観”に惑わされすぎじゃない?
肉体を取り替えることがあたりまえになった世界に住んでるわりには
あまりにもナイーブ。
      
それにもっと根本的な問題。
この世界、富豪たちは肉体のスペアをいくつも持っていて
不慮の事故(殺人含む)で死んでも、自動バックアップされた
精神データをダウン・ロードして何度でも生き返る。
でもそれって“不死”とは言わないよね。
      
バックアップは何から何まで自分そっくりではあるけど
それは「わたし」じゃない。
自分が生きてる間にバックアップを起動させてみればばわかりやすい。
わたしはわたし、バックアップくんはバックアップくんだ。
バックアップくんも間違いなく「わたし」だと思っているだろうが。
      
このへんのところは、それはそれでおもしろい話ではありまして、
いろいろ考え始めちゃうと「わたし」という概念自体揺らぎだす。
じつは結論も一概に言えなかったりするんですが、
まあ普通、特に説明のない場合
「わたし」と「バックアップ」を分けて考えるのが
最近のSFでは常識だと思うんだけど
(この考えに沿った場面もあるにはあるけど
むしろよけい不死との矛盾が気になる)。
      
「でもそこ突っ込んじゃうと根底から吹き飛んじゃうよなあ……」
などと考えながらも読み進んでいくわけですが、それでも
いつの間にか話に引き込まれている自分に気づきます。

なんたってこの小説、なかなか凝ったプロットを
このガジェット満載の世界の中で読ませるにしては
かなりリーダビリティが高い。

著者はあえてそれらのめんどくさい議論を回避したんでしょうね。
まともに扱っても今や希少種のSF読みしかよろこばないし。
      
その手のSF的思索をオミットしたことによって得られる
ドライブ感、ノリの良さ。
主人公による一人称の語り口も観念的とはほど遠く
即物的で無頼。
      
つまりこの著者が目指したのは、ハードはハードでも
ハードSFじゃなくてハードボイルドなのでありました。
(「ブレードランナー」の脚本家も“未来のフィリップ・マーロウ”を
イメージしたといいます)。
      
確かにハードボイルドの主人公ともなれば
美女を目の前にしたらBED IN!がお約束。
美女の肉体にピクリともしないカケ離れたメンタリティの持ち主じゃ
こっちも感情移入できないからね!
      
ちょっと“ご都合”なところはありますが
SF的設定のストーリーへの絡め方もツボを得てるし、
アクションも満載。
「ブレードランナー」の世界、ジャンクなガジェット、
ハードボイルドな主人公、サスペンス。
エンターテインメントとしてこれはこれで十分アリ。おもしろいです。
      
発表当時、いち早く映画化権が売れたのも納得。
      
まあハリウッドとしても、ある意味
「ブレードランナー」以上に「ブレードランナー」らしい世界観が
イメージしやすかったんだろうね。
      
でもそれが“21世紀の「ブレードランナー」”となり得るかは
また別の話。
      
言わずもがなだけど
「ブレードランナー」には重要なテーマがあった。
それこそまさに、この小説が議論を避けた
「わたしとは何か?」という問題。
      
「ブレードランナー」が提示したのは
この小説を含む数多くのフォロワーを産んだ
あの世界観だけじゃなかった。
      
はたして「オルタード・カーボン」の映画化は?
      
小説の映画化の世界観を小説にした映画化。
      
レプリカントのレプリカントのレプリカントはやっぱり偽物?
この構図、ちょっとディック的。
      
「ブレードランナー」のオルタード・カーボン。
      
ただの“劣化コピー”にならなきゃいいけどね。
      
      
      
      

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