2010-02-17

God Bless You, Mr.SF, or Goodbye, Blue Atmosphere

      
      
ネットのニュースで見たときは
思わず声をあげてしまいました。
       
数多くの海外SF作品の翻訳で知られる浅倉久志氏が
14日、心不全で亡くなりました。79歳でした。
      
浅倉久志──日本で海外SFを読む上では避けては通れない人です。
アーサー・C・クラークなどの巨匠はもちろん、
フィリップ・K・ディックやウィリアム・ギブスンの先鋭的な作品から
カート・ヴォネガット、R・A・ラファティなどとぼけた味のあるものまで
非常に幅広く手がけてきました。
      
とてもスマートで読みやすい文章。
すばらしい安定感。安心して読めるまさに浅倉印。
本来、こういう資質こそ翻訳者に求められるものではないでしょうか。
もし、はじめて海外SFを読む人に「おすすめは?」と訊かれたら
クラークでもティプトリー・Jr.でもなんでもいいから
とにかくこの人の訳書を渡すのがいいかもしれません。
(実際には、個人的に思い入れてるバリバリのハードSFで
さんざん失敗しているのですが〈涙〉)
      
もちろんわたしもたくさん読みました。
      
ギブスンが始めて日本に紹介されたとき、
じつはわたしも黒丸尚氏の(革命的な)訳が苦手で
途中で放り出してしまったクチなんですよね。
でも浅倉さんが訳すようになってからはギブソンは大好きな作家になりました
(訳者交代は残念ながら黒丸さんが早くに亡くなられたためでしたが…)。
そういえばギブスンが“Google”を動詞として使っていたのを
当時すでにすでに一般化しつつあった“ググる”とせず
“グーグルする”と訳したのは「パターン・レコグニション」でしたっけ。
スラングが多用されるギブスン作品ですから
さすがにわたしもこれは“ググる”でいいだろう、と思いましたが
(本人もあとがきで悩んだと吐露してます)、
今にして思えばそれも“あらゆる人に読みやすい”翻訳のために
心をくだいた結果だったのかもしれません。
      
そして、おそらくこういう人は多いでしょう。
そう、わたしにとっても、浅倉久志といえばヴォネガット。
この二人、わたしの中では二人で一人、
切っても切れない不可分の存在になっています。
もう、往年の藤子不二雄というか。
作家と訳者をそんなふうに例えちゃいけないのかもしれませんが
ヴォネガットと組んだときの浅倉さんには
いつもの“安定感”を超えて、何か化学反応が起きていたように思うんです。
どこまでがヴォネガット節でどこからが浅倉節かなんて関係なく
この“二人の文章”には間違いなく独特のリズムがあるんですね
(いや「母なる夜」や「スローターハウス5」もいいんですが…〈汗〉)。
ヴォネガットが亡くなったときももちろん悲しかったけど
すでに断筆宣言してしばらく経っていたし、
年齢も年齢で正直少し覚悟していたようなところはありました。
さらに本音を言えば、浅倉さんさえいてくれたら
未訳の作品が今までと変わらぬタッチで読めるかもしれない
という期待が持てたんですよね(実際それは実現されるわけですが)。
でももう、それも永久になくなってしまいました。
      
先月は、やっぱりわたしの大好きな翻訳者、小隅黎氏が亡くなったばかり。
学生のころ読んだ「造物主の掟」(J・P・ホーガン)を再読しているところでした。
もし好きなSF翻訳者を一人だけ、と問われれば
(多少のノスタルジーを込めつつも)迷いなく小隅黎!と答えるでしょう。
それはこれからも変わらないと思います。
でも浅倉さんの訃報を知ったあとの、小隅さんのときとは少し違う喪失感を
なんと表現したらいいのでしょうか。
      
SFを読み始めたころから、空気のように当たり前にそこにあって、
でも何物にも替えがたい大切な存在を、
ある日突然なくしてしまったかのような感覚。
そして、なくしてあらためて感じるその空気の
なんと端麗で清々しかったことか。
      
      
謹んでご冥福をお祈りいたします。
      
      
      
      

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